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被災64周年 東京大空襲資料展
東京大空襲資料展
と き 2009年3月7日(土)~10日(火) 午前10時~午後5時 ところ 浅草公会堂ギャラリー(入場無料)

 太平洋戦争の末期、1945年(昭和20年)3月9日の深夜、東京の下町一帯は天をも焦がす業火に包まれました。
この日午後5時頃、マリアナ群島の米軍基地を発進したB29戦略爆撃機325機は、13,000発のナパーム焼夷弾を抱え、東京に向かいました。その狙いは、木と紙でできた家屋が密集する旧浅草、本所、日本橋を含む東部地区を焼夷弾攻撃で焦土と化すことだったのです。10日午前0時7分から午前3時まで続けられたこの大空襲で、10万人余りの死者、11万人余りの負傷者、そして家屋の焼失約100万戸という惨劇が生じました。広島、長崎の原爆による被害にも匹敵するものです。
 空襲は、軍事施設ではなく下町の人家密集地域を狙ったものでした。無数の市民が逃げ場を失い、炎に包まれて焼死し、身元不明のまま葬られました。まさに大量虐殺です。犠牲者の遺族はいまだに花を手向ける墓も持てず、毎年3月10日に墨田川べりを訪れ、当時をしのんで冥福を祈っています。
 この悲劇を2度と繰り返してはならないとの思いを込めて、東京大空襲資料展を毎年3月10日前後に開いてきました。

東京大空襲犠牲者追悼集会

資料展

「石川光陽遺作写真コーナー」他の多彩な展示

【特別展示】
「広瀬美紀・東京大空襲被災死者仮埋葬地写真コーナー」
「高校生が見た東京大空襲被災樹木コーナー」(提供:東京大空襲・戦災資料センター)


浅草公会堂入口

会場入口

会場受付

東京大空襲の解説

石川光陽写真コーナー

広瀬美紀写真コーナー

写真を見る人々

写真を見る人々

被災者の遺品コーナー

被災体験者の絵

灯火管制下の部屋

ビデオを見る人々

被災体験者の話

図書コーナー

談話コーナー
イベント案内
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浅草戦跡めぐり
コース [言問橋~浅草寺周辺]
被災体験者の言葉

想い出ずること

鈴木精志(82歳)

 私は浅草で生まれ、十四歳の時東京大空襲がありました。空襲はぽつぽつありましたが、こんな酷い厳しい空襲は初めてでした。まず東京の下町の周りに焼夷弾を落とし、人々を逃げられぬようにしてからのじゅうたん爆撃でした。
三、四時間のうちに十万の人々が焼死、そして、また火に追われて隅田川などで水死しました。北西から冷たい強風が吹いておりましたので、隅田公園に逃げざるを得なかったのです。私の家は二軒、別々に離れておりましたので、逃げるのにばらばらとなってしまい、独りで隅田公園にたどり着きましたが、大勢の人々でいっぱいでした。だが、強風と背後の猛火の様子を見て言問橋を渡らざるを得ませんでした。でも橋の上は荷を一杯に積んだ大八車やリヤカーと、逃げ惑う人々で満ち溢れていました。
向島側にも火の手が上がっているようでしたが、風下側の向島の隅田公園に向け、橋の上の人々と、その荷物をかき分けかき分けたどり着きました。
公園の素堀りの防空壕に退避して、仰ぐ空は赤々と染まり、言問橋も燃え上がり、橋から隅田川に飛び込む人もおりました。家々の燃えさかる火明かりで、腹が赤々と染まったB29が超低空飛行で、ゆうゆうと言問橋を越え、隅田川の上を東京湾方面へと消えて行きました。高射砲隊も燃え失せてしまったのでしょうか。
夜明けが待ちきれず、家族が心配で火が治まったらしい橋に上がりますと、何か黒いものがごろごろと転がっておりました。
二つ三つ跨いでよく見ると、それは焼けて素裸の黒焦げとなった人間の遺体でした。
橋の上には焼け焦げて、形をなしていないリヤカーや大八車とともに、沢山の人々の亡がらが溢れており、欄干のところどころにも、何人もの焼死遺体が互いに火を消しあうように、重なり倒れておりました。
でも、行方の知れない私の家族たちが心配で橋を渡りきり、まだ、くすんでいる無人の焼け跡を家へと急ぎました。夜も明けて、明るくなると、一望千里、東京湾まで焼け野原となり、上野の台地に上野駅が小さく、白く、ぽつんと立っているのが見えました。
その遠くの端にお茶の水のニコライ堂の丸屋根がよく見えました。
当時は木造住宅が多く、鉄骨づくりは少なく、小学校とか浅草松屋などが焼けただれて、透きとおり、骸骨のように、ぽつりぽつりと立っているばかりでした。
幸い父と妹は辛うじて無事でしたが、継母とまだ生まれて間もない妹は隅田川に流されて亡くなりました。もし一緒に逃げることができたなら、命に代えても助け得たものをと、胸中に涙がこぼれます。

九死に一生を得て

岡崎吉作(76歳)

 その日は朝からどんより曇り、道端の雪はまだ溶けず、風も強く寒い日だった。中学受験を間近にひかえた小学校六年生の私は一途に戦争の勝利を信じていた。
三月九日午後十一時頃、警戒警報が発令、間もなく解除。再度、警戒警報。数分後に空襲警報の轟音が鳴り響いた。母と家の防空壕に避難していると、外から父が飛び込んできて「早く逃げろ、すぐそこまで火の手がまわっている。」と大声で叫んだ。防空壕から這いだし道路に出ると、B29が数機低空飛行で投下した新型焼夷弾が炸裂し、雨のように降っていた。目の前を荷物や布団を背負った避難者がつづく。その人の波に揉まれながら、母に手をひかれ浅草区立千束国民学校に逃げ込んだ。
すでに校門の下駄箱辺りは避難して来た人達と荷物で溢れていた。後から逃げてくる避難者に押され校庭を抜け講堂に入った。父、姉、兄も講堂へ逃げて来たので、偶然にも家族五人が一緒になれた。火の手が校舎にまわり火の粉が講堂の中へ吹き込んでくる。扉を固く閉めても強風のため開いてしまうので、父がロープで固く縛った。そのうち講堂の隅に置かれていたピアノが熱でくすぶりだした。恐怖と不安で狼狽する数十名の避難者の様子に異変が起きて来た。酸欠のため呼吸が苦しくなってきたのだ。父が講堂から出ようと皆に呼びかけ、校庭の反対側の公園に抜ける扉を開けた。すると、すぐ足元に赤く焼け爛れた男性の死体があった。私は足が竦んだ。公園の木々は激しく燃え、周囲の民家が燃え落ち、南の方角で浅草寺がめらめらと燃えつづけていた。扉を閉め、校庭側の扉のロープを外し、皆でプールに飛び込んだ。乳飲み子を抱えた家族は、講堂に残り凌いでいた。
燃え狂う校舎の火の粉が頭上に落ちてくる。水の中に潜って防ぐしかなかった。家族五人は周りの人達と励まし合い、校舎が燃え落ちるのを待った。およそ一時間半後、九死に一生を得た被害者はずぶ濡れの状態でプールから這い出した。校舎内の防空壕に避難した人達の多くは窒息死していた。近くの冨士国民学校ではプールに避難した人達はほとんど亡くなったそうだ。
五ヶ月後、戦争は終わった。中学一年生の私は日本の指導者に憤りを感じた。

来展者の感想

2008年東京大空襲資料展 感想文(3月8日~11日)

東京大空襲のことを今日はじめてしって、すごくひどいことを日本はうけたんだと思った。人やかちくまでやけ死に、町もぼろぼろになっていて、とてもひどかった。まるで、じごくをみているかと思った。これからは日本がそういう風にならないようになってほしい。
(13歳、中学生女子、茨城県龍ヶ崎市)

あらためて「戦争」についてじっくりと思いをめぐらせる機会をいただきました。二度とこのような悲惨な出来事は起して欲しくない。しかし今だに世界的に見れば戦争や紛争など悲しみの螺旋が途絶える気配は無い。我々の世代は、この恐ろしい戦争の記憶を引き継ぎ、後世に伝える努力をしなければならない。この記憶が失われた時、この日本はまた同じ過ちを犯してしまうのではないかと思うと怖くなる。そして私のような大学に行くことのできる人間は、そこで得られる知識を、少しでも世界から悲しみを無くすために利用し、分配すべきだと、そのために努力しなければならないと、身の引き締まる思いがした。
戦争を味わったことのない人間が、戦争を肯定するなど許されない。戦争に「善」など無く、戦争とは憎しみと悲しみを生む人間の最も恥ずべき行為だと思う。
(19歳、大学生男子)

毎年、すばらしい展示だと、心から感謝、感動しています。昨日、僕ら・平和サークルP’魂sも、下町曳舟のCLUBバーで、東京大空襲をテーマに若者100人を呼んで、イベントを行いました。この下町、この東京、日本全国から、平和を伝え、広げ、そして未来に生まれ、育ってゆく人々、子どもたちに、平和を残し、広げていきたいと思います。みなさんと、一つになって、これからも活動していきたいと思っています。よろしくお願いします。
平和サークルP’魂s 矢口
(27歳、教員、三鷹市)

父が18歳の時に家族5人を失いました。立川で、学徒動員で、真っ赤に染まった東京方面を見て、何日もかけて深川に戻ってきました。焼き焦げる死体や、水に浮く死体を、祖父と何日もかけて捜しましたが、二人の兄妹は見つかりませんでした。父は今81歳で病院にいます。父の口から一度も聞いたことがなく、教師だった父の組合の新聞にのせていた文章を一冊にまとめてものを本にする際、読み初めて知りました。今日も、深川のお寺におまいりをし、ここへ寄らせていただきました。父がいたら、きっと足をふみ入れる事は出来なかったかもしれませんが、娘である私は“九条改憲”に反対の意思をもって、生きて子供たちに伝えます。ありがとうございました。
(56歳、女性保育士、滋賀県大津市)

今日初めて拝見させて頂き、今更ながら胸にこみ上げて参りました。当時10歳でございました。母38歳、7歳、5歳、3歳と亡くなり、一人ぼっちでさまよい、次の日、近所の方に案内されて父と再会しました。涙、涙の63年間でございました。現在幸福に毎日を過ごさせていただくのも、亡き人びとの尊い命のおかげでと毎日手を合わせて祈っています。平和な日々、日本では若い人びとに二度とこの悲しい現実の写真の様にならむ為にま努力してと、心より願っています。本日はあらためて胸にこみ上げてきました。皆々様の協力と努力に心より感謝いたしましてペンを置かせていただきます。ありがとうございます。
(72歳、葛飾区柴又)

下町が燃えたあの夜 改訂新版
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